試験場の歴史

▶ 神野新田「酒井正三郎著」より引用

文字化しました

 大正九年、政府は水産養殖事業を奨励する必要から、全国適当の地に二ヶ所の水産試験場を設置する計画をたてた。これをきいた地方では、猛烈な誘致競争を起し、浜名湖をもつ静岡県では熱心に当局に運動した。しかるにその一ヶ所は、ついに神野新田と決し、大正十年五月、農林省水産講習所養殖試験部の一部として、専ら温水性淡水魚族の養殖に関する試験が開始せられた。

 これより先、愛知県渥美郡水産組合では養魚業の勃興に伴い、技術的研究機関の必要を感じ、しばしば県当局に陳情してその設立を懇請していたが、大正九年にいたり、補助金の交付と、指導技術者の派遣を受けて、豊橋市外牟呂吉田村北島(現在豊橋市北島町)に淡水養魚研究所を設立することになり、一町一反八畝歩余の敷地内に試験池試験室などが設備せられた。

 翌大正十年、水産講習所養殖試験部が設置せられることになったので、 ここの設備の一切を寄附することとし、北島には牟呂試験池を設けて研究を続けた。しかるに、その後 豊橋市の発展に伴い、北島は市街地となったので、昭和二年、試験場を神野新田の試験池に移転合併することになり、北島を廃した。

 この試験場は幾多有益な研究を遂げたけれども、後に愛知県に移管され、三谷の愛知県水産試験場の分場となったが、遂に昭和二十三年に到って閉鎖された。

 現在この場所には豊橋市立牟呂中学校が建設せられている。この試験場が当地方の養殖業につくした貢献は蓋し大きかったのである。


原紙画像

▶ 北島の位置

当時は北島も神野新田も牟呂吉田方村でした